【新春特別企画】 角川裕明監督(グランプリ)×飯野歩監督(準グランプリ)対談

新年1回目の特集は、昨年に続き新春特別対談として、第2回神保町映画祭グランプリ受賞「MY☆ROAD MOVIE~チャリンコで自分探しの旅~」の角川裕明監督、

準グランプリ受賞、「落研冒険支部」の飯野歩監督の対談をお届けいたします! 


※対談の内容には、各受賞作品の内容に深く関連するもの(ネタバレ)が含まれますので、あらかじめご承知おきください。

 

 

 

グランプリ受賞 角川裕明 監督プロフィール

 

1974年生まれ。ミュージカル映画監督

広告代理店勤務を経て俳優に転身。

「レ・ミゼラブル」などのミュージカル等、数々の舞台や映像作品に出演。

2012年、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭にて、初監督作品のミュージカルが映画「ユメのおと」が短編映画部門グランプリを受賞。

2013年には、松竹配給オムニバス映画「埼玉家族」の中の1作品として、ミュージカル作品「父親輪舞曲-ちちおやロンド-」(鶴見慎吾主演)を監督。

 

 

公式サイト:http://kakukawa.com/

 


 

 

ーお二人が映画を撮り始めたきっかけを教えてください。

 

角川:僕の場合は、別に監督業の勉強をしたわけでもなく、

大学で映画の勉強をするといったことも全くない中で、

とにかく「ミュージカルを文化として広めたい」というそのひとつの方法論として、映画があったという感じです。

受賞作の「MY☆ROAD MOVIE~チャリンコで自分探しの旅~」も、いわゆるみんなが想像するミュージカル映画とはちょっと違うけれども、ミュージカルというものを日本に根付かせるためにはもっとこういうものがあるんじゃないかっていう作品でもありました。映画祭に出すことももちろん念頭に置いてはいたけれども、特に映画祭向きにしようとかではなく、やりたいことの一環として撮ったものですね。

 

飯野:僕は中学生のときに映画を撮り始めたのですが、

きっかけは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でした。あまり期待せずに劇場へ観に行ったのが、終わった瞬間に、面白すぎて放心状態になったほどで、「これはやるしかねぇ!」と。高尚な作品というよりはエンターテイメント作品というか、クライマックスで盛り上がる映画、観終わった後にスカッとする映画がいいなと思って、数ヵ月後にはもう脚本を書き始めてました。

 

 

 

準グランプリ受賞 飯野歩 監督プロフィール

 

1971年生まれ。日本大学芸術学部映画学科卒。

中学時代より映像制作を始め、その魅力に取り付かれる。自主制作で制作した作品はPFFアワードを始めとする様々なコンテストにて多数公開される。

 現在はドラマの演出や撮影のほか、PVやライブ、CMのカメラマンとしても活動。

 ジャンルを越えたところでは、ゲーム作品にて演出も手がけ、実写映像を使用する作品では撮影時の監督や、カメラマンなども担当

 

 

【公式サイト】飯野歩開発機構

http://www2.tbb.t-com.ne.jp/ayumu/

 

 


 

ー角川監督はご経歴も変わっていらっしゃいますよね。

 

角川:広告代理店の営業を3年くらいやって、ボーカリストになりたくて会社を辞めて、その後、ミュージカルにも出るようになって。

  役者をやりつつ、2012年に初めての映画を見よう見まねで撮りました。

 

飯野:じゃ、役者というよりもミュージカルを中心にやってきたわけですね。そうか、作詞作曲もされるんですもんね。それは知らなかったけれども、作品を観て「きっと音楽がお好きなんだろうな」と思っていました。

  あのギターのカッティングの歯切れのよさとか、違うイメージカットをババッと、全部画面に出しちゃったりとかっていうの。

角川:音楽のPV的なね。

飯野:もう完全に、観たいものが全部見えている人の造りなんですよね。

角川:日本の人たちって、ミュージカルというと雰囲気が大袈裟というか、「急に歌い出すもの」みたいな感じがあって、

   でもPVはカッコいい、おしゃれだ、ストーリー性があるみたいな風に受け入れられている。

だからPV的な手法を取り入れて見せていくと、少し抵抗がなくなるのかな、と思って撮りました。わからないなりに工夫して(笑)。

 

飯野:僕らが子供の頃に観ていたようないわゆるミュージカルの手法をそのまま移植しても違和感があるのはわかるし、

  僕らの生きている今の世界の中で、いかにミュージカルの世界観が立脚できるかっていうことを考えた末の監督の表現がすごくしっくり来たというか、面白いなと思って。「導入部でいかに突然感をなくすか」っていうところに、すごく配慮されている作品なんじゃないかって。

角川:まさに、まさに。自分で話しているみたいですまさに「導入部」なんです。

飯野:僕は特にPV仕立てだと思いながら観ていたわけではないんですけど、逆に今PVにドラマ仕立てのものが増えていますよね。

  それってPVだと思って観ているから違和感はないんですけど、本来映画だってそういうことをやっていい、自由であっていいはずなので。

 自分が観ていても思うんですけど、「何でこんなに言い訳を考えながら、ミュージカルを成立させなきゃいけない文化になっちゃったんだ」と考えさせられちゃったんですよね。

 例えば外国人が演じていれば違和感はないわけですよ。リアリティを気にしないから。

でも日本人だと「この場面では歌わないよ……」の一言で壁ができちゃう。それはちょっと残念だなって。

 

角川:僕はよく言うんですけど、文化を「静」と「動」に分けると、日本の文化って「静」だし、外国の文化は「動」だなと思っていて。

  例えば黒人の文化圏だと、普通に歩いていることすらもうダンスなわけですよ。会話もリズミカルで、歌うような話し方でも違和感がない。

同じアジアだと韓国はミュージカルが盛んなんですが、押しが強い文化なので、やっぱり歌うような話し方で違和感が生まれにくい。

そこへいくと日本人は基本的に奥ゆかしいので、急に歌い始めることにはすごく違和感があるんです。

 

飯野:文化ですよね(しみじみ)。この間YouTubeで、号泣会見で話題になった元県会議員さんの、会見で泣き叫ぶ様子をギターでなぞるという、これも話題になった動画を観たんですよ。これが見事にジャズになっていて。会見自体はそのままなんですよ、でもそのわぁわぁ泣き叫ぶ声に楽器で合いの手を入れていくとジャズになる。本人はリズムにのってしゃべって いるつもりはないだろうし、そもそもリズム感がおかしい会見だと思って観ていたはずなのに、音楽と合わせたときに拍子が取れている。まぁ泣き叫んでいるので違和感はあるんですけど()、人間のやっていることとしては、しゃべるとか歩くとかいうのは「リズム」なんだなーって。

 それで、「MY☆~」の、自転車をこぎながらの独白が歌に聴こえてくるっていう手法がボソボソ愚痴っているのかと思ったら、いつの間にかリズムに乗っかってたあれが、「これは上手い!」と。ちょっと偉そうな言い方になっちゃいましたけど(苦笑)、自分としてもちょっと発見できた感じがしたんです。

角川:本当にそうなんですよね。別の作品では、最初の導入部分を「運転しながらの鼻唄」から始めているんです。それも日本人って絶対やるんですよね。

飯野:あぁ、はいはい。

角川:楽しければ歌う気持ちはあるし、それがエスカレートすれば大声でみんなで歌ったりもするし。でも、最初のその壁みたいなものは、日本人だととても高い。だから映画でいう最初の部分だけはとにかく繊細に、違和感をなるべくなくしていこうと。だんだん皆慣れてくるので。

飯野:観客が、いいところを味わう前に逃げてしまわないように。

角川:そうなんです。日本のミュージカルの場合は、そこをちょっと考えないと。

飯野:難しいですよね。でもそこを完全なコメディにしてしまうというのは、みんながもうやっていることで。例えば、突然歌い出すことの違和感自体を笑いにしたりとか。

 

角川:でもそれは、ミュージカルとしては王道ではない気がしていて。そこは笑いではないものを作りたいな、と。もちろんコメディも作ってみたいけれど、海外ミュージカルでいうコメディって、歌うこと自体を笑いにするものじゃないですよね?

飯野:歌うことはあくまで表現というかね。

角川:どの映画でもそうなんですけど、ミュージカル映画でも役者さんの技量がとても重要で、歌に変換する技術は、コツとかセンスが必要ですね。主人公を演じた彼も、ミュージカル俳優ではないのでとても苦労はしていましたけど、それを飛び越えてやってくれて。台詞として、歌もラップももちろん台詞も消化してやってくれるのは彼でしたね。芝居の中でやることは全部消化してくれたので。

飯野:でも、あの方が作品のリアリズムを支えていましたよね。ミュージシャンやミュージカル俳優さんたちの中で。他はちょっと現実からかけ離れていてもいいけれど、彼のリアリズムのレベルがぶれてしまうと、導入部分がよくてもこちらとしては「あ、そっちに行っちゃうんだ」となってしまう。そのギリギリのラインでせめぎあっている感じは「大変そうだな」と思ったんですよね。

 逆にギターを持った「謎の女」が出てきたときは、すごい面白くて、シュールだなと思ったんですよ。無表情で「どっから来た?」って質問して、「埼玉です」「そうじゃない」っていうあのやりとりとか(一同笑)。あそこへガーッとなだれ込む感じはすごい。

角川:彼女は役者ではなくて、ミュージシャンなんですよ。

飯野:リアリティを重視している導入部分に対して、楽曲もギターもすごくカッコいいし、その落差がね。「あっ、成立してる」と。


感覚を伝えようとする部分に

作品同士の共通点が

 

角川:僕は飯野監督の作品を観たときに、すごく音楽的というか

飯野:え、そうですか!?

角川:特に、追いかけっこをするシーンのカットの仕方とか、すごくリズム感があるなと思って。それで僕も監督のホームページを拝見したら、音楽PVをたくさん撮られているし。無意識かもしれないけれど、結局反映されているのかなと僕も勝手に思っていたんです。

飯野:映画を観るときに「物語を理解するために観たくない」というのがあるんですよ。僕が角川監督の作品を観せていただいたときに、楽しかったのはそういうところもあるのかもしれないです。例えば最後は親子の話になりますけど、あの親子の感動の出会いという物語を伝えたいわけではないじゃないですか。あの場に至るまでの主人公の感情の揺れとかを、感覚で、それも歌として、という形は僕はとても良いなと思って。

 僕の「落研冒険支部」にも物語はあるんですけど、「女の子たちがこうして出会ってこうなりました」という物語の説明をやりたかったわけではなくて、なぜか追われる立場になって、「奴らが来た!どうしよう!逃げなくちゃ!」という感覚を伝えたい、それも映画でしか伝わらない感覚が伝われば一番ありがたい、と。物語だったら小説の方が伝わるかもしれないですしね。

 そこで音楽的だと思って観てもらえたことはうれしいというか、音楽やリズム感を意識して作ってはいないけど、感覚、快感性といったところが伝わる映画になっていたらうれしい。激しい感覚でなくてもいいんですよ。しっとりした雰囲気でもいいんですけど、例えば小津安二郎の映画だって説明なんてなくて、ずっと喋っているだけでもなんだか、じわっとくる。物語ではなくて、空気であったりとか、感覚じゃないですか。さらに言えば、そういう映画作りをされている人と一緒に賞をいただけたというのはよかったな、と思います。

 

 

ー確かに「落研~」の感覚的な表現は印象に残っていますね。序盤に出てくるめくり(スケッチブックを次々にめくっていく)のテンポが作品全体に通底しているな、とか。どんどん畳み掛けてくる感じというか

 

飯野:それはうれしいですね。「めくりが面白い」と言ってもらうことは何度かあったんですけど、めくるのをリズムとして捉えてもらえたというのは初めてで、すっごい今うれしい。

 あれ、実はカット割りをちゃんとしていなくて、通して撮ったんですけど、(人物が入っていない)スケッチブックだけのカットがずっとあって、それをどこで挟み込むかは編集の時に僕が決めないといけなくて。タイミングとか、長さとかを結構必死で考えたので。

 よく「速すぎて内容が読めない」と言われるんですけど、読ませるためにやっていないんです。実は主人公も全部は読めていないんですね。でも、「蛇頭」とか短い単語だけは目に入って、「なんだか、落研と関係のない情報が畳み掛けられている!」という感覚だけが欲しかったので。バンバンめくってリズムを叩きつける、むしろ読ませる場になってはいけないんだ、という。

角川:ああいうシーンって、監督は説明してしまいたいから、少しでも長く取ろうとしがちなんですよね。

飯野:自分は内容を知っているので、あのスピードでも遅いくらいなんですよ。でも、さすがにこれ以上速いとリズム感自体も狂うから。最初にスタッフに見せたときには「これ、読めないでしょ」って言われましたね。特に脚本家(市村政晃氏)は、あの文字も情報として書いているので、「あれじゃ伝わらなくない!?」ってすごく言われて。で「いや、伝えるつもりでやってないし」と返して喧嘩になる、みたいな(苦笑)。

 でもあそこは、情報が伝わったからといって別に感覚的には「わかる」だけじゃないですか。主人公も、あの情報をすべて知ったから郭ちゃんを助けようと思ったわけではないだろうし。彼女を本当にいい子だと思ったのか、単に巻き込まれ型の性格なのか、そういうことって人間いくらでもあるんだから、それでいいんじゃないかな、って。仮に2回以上観てくれる人がいたとして、「じゃあ、今度は読んでみよう」と思ってくれればいいかな、くらいのもので。1回で全部わからなくていいんです。そんなに複雑な話ではないので。

 

 

ー脚本家の方とせめぎあう場面は他にもありましたか?

 

飯野:むしろ脚本の市村さんに黙って変えちゃったところも結構あります()。実は大学の先輩なんですよ。お互い10年間ずっと「何か一緒にやろう」といい続けてやっと実現した映画なのに、勝手にいろいろ変えちゃって「あぁこういうことするんだオマエは」と()。もちろん、関係が悪くなっているということじゃないですよ。「わかったわかった」と。

 でも、一番言われたのは、冒頭で部長がかの有名な落語家「桂枝雀」の名前を読めない、というシーンで。脚本家としては「部長はあまり自分を出さないけれど博識」という設定だったので、「えだ、すずめ?」と読み間違える方向へ変えてしまったことで「オレのキャラクターの根幹が崩れるんだよ。で、最初からやろうと思ってたの?」と問われて「はぁ、思ってました。脚本の会議では言うの止めました」って()。でも、そこでそれを読めない子が落研の部長をやっている方が面白いんじゃないかって。もしかしたら、知っているのにわざと読み間違えて、相手を煙に巻いているのかもしれないしね。

 

 


 

ー私は2回観たんですけど、2回目が全然違いました。ストーリーがわかった上で「あっ、この子たちの関係性が変わってくる感じは面白い」と思えた。

 

飯野:それは一番ありがたい観てもらい方ですね。同じ場面でも何回も観たくなる映画とそうでない映画ってあるんですよね。僕が映画を撮りたいと思い始めたのは中学生の頃なんですけど、当時は「天空の城ラピュタ」や「トップガン」が好きで。ビデオを手に入れたら「シータの救出シーンだけ延々繰り返して観る」っていう()

角川:はいはい()

飯野:もちろん展開は知っているわけじゃないですか。全部わかっているのにやっぱり観るっていうのって、生理的にノれるからなんですよね。ただ、知っているからこそ、そこでの表情の付け方とか、音楽とかにどんどん自分なりの解釈が加えられていって、というのがいいんじゃないかなと。

 難解な映画だけじゃなくて、ただの娯楽映画でそれをやれるのが僕は一番うれしいので。

 だから今回、最初は彼女たちが捕まるかどうかを追っていったとして、2回目は少し余裕をもって、彼女たちの気持ちがどうなるのかを観てくれたとしたら、それはもうありがたい。そういう意味では、彼女たちの関係性については説明をしていない部分が多いので。そもそも部長がなぜ郭ちゃんを助けようとしたのかもわからないし、主人公の翠がなぜ2人についていったのかもわからないし、郭ちゃんは本当はどう思っているのかもわからない。けど、最後まで観てもらえば、作り手として通している部分はあるので、もしそこに自分なりのシンクロする部分とかがあれば、うれしいな、と思いますね。もちろん、それが正解とかいうことではなくて。

 

角川:今度、いわゆる「不条理芝居」をやるんです。台本だけ読んでもなにが言いたいのかわからない作品で。飯野監督がおっしゃる通り別になんの解決もないのだけれど、場面だったり、役者同士のやり取りだったり、「あのシーンのあの2人がカッコいい」とか、結局それで成り立っている。なんだかそういう部分が重なるな、と。解決していないことはたくさんあるけれど、全然気にならないというか。オチがないことを凌駕する爽快感とか、ハートウォーミングな感じとか。

飯野:脚本では、郭ちゃんをNPO団体の玄関先まで送り届けて、彼女は建物に入っていったんです。でも僕はそれはつまんないと思って。僕の中では、あいまいにして「ここでいいよね」ということで1人で行かせるように、ちょっと変えちゃったんです。そこで説明しないことによってつまらなくなる映画なら、ちゃんと説明していてもつまらない映画ですよ。だから今「気にならなくて正解」と言ってもらえるのは本当にありがたいというか。

角川:そこはセンスですよ。

飯野:いやいや、ギリギリの綱渡りですけどね()

角川:一瞬「あ、そこまでは一緒に行かないのか」と思ったけれど、あの2人の表情をずっと追っかけていって、それで建物やその中に入るところまで見せちゃったら、全然生きてこないですよ。あれはやっぱり「どこへ向かうかわからない」という表情だったというか。

 

 

「これがやりたい!」を貫けるのが

自主映画の醍醐味

 

 

飯野:僕らが大学生くらいの頃の感覚からすると、最近の邦画って本当にヒットするようになってきた。それは喜ばしいことだと思う反面、同じようなイメージの映画がいくつも作られている感覚もあって。例えばミュージカル映画なんて選択肢として想定されてもいないだろうし、「シン・ゴジラ」が出てくるまで怪獣映画だってほとんど作られなくなっていたし。そうすると、ビジネス的に考えて動員が稼げる企画は、確かに映画産業として潤うために大事なんですけどそれ以外のものがなくなっていく構図を考えると、複雑ですね。

 自主映画だと予算も限られているので、今ある映画の縮小版みたいなことをやっても予備軍にしかなれない。そこで、自分達で企画をやっている自主映画だからこそ、「今の映画界にない映画に挑戦しよう」というものがもっと出てきてもいいな、とすごく感じます。言ってみれば「成功しないからやめよう」が先にたって、なかなか「まずやってみたい」とならない。でも、角川監督のようにまずやってみれば、観客にも選ばれる作品になる。もちろん角川監督自体は、「選ばれるのでなければやる意味がない」というのではなくて、まず「これがやりたい」から撮ったわけですよね?

角川:そうですね。

飯野:そうやっていろいろな視点の作品が集まってきた方がいいのにな、と。

角川:「MY☆~」は、2本目に撮った映画なんですよ。いろいろあって、編集に3年かかってしまって。

飯野:じゃあ撮影自体は

角川:2013年なんですよ。だから、撮り方も荒々しいし、カメラも一眼レフで本職のカメラマンではない人が撮っているし。

飯野:あ、あれは監督が実際に撮っているわけではないんですね。

角川:そうです。僕の前に立ってもらって、監督が撮っている体で。実は、カメラを担当したのも音楽を作る仲間で、プロデュース業の一環としてPVも撮っているというので「じゃあ、カメラやってよ」と。1本目、2本目の作品は彼の一眼レフで撮ったものなんです。

 今回、いろいろな映画祭に行ってわかったんですけど、複数の映画祭に重なってノミネートされる作品って多いんです。会場でも監督同士が「あ、またお会いしましたね」みたいな。僕の作品はノミネートされる数こそ少ないながらも、賞をいただける確率が高いんです。つまり、「これがやりたい」という勢い、暴れん坊的な部分を面白いと感じたり、「こういうのが自主映画だよ!」と思ってくださるんでしょうね。一方、綺麗で完成度の高い映画を求めている映画祭では、僕の粗削りで、技術が追い付いていない作品や、ミュージカルというテーマを見て、「出来映えもいまいちだし、ミュージカルとしてもちょっとね」という評価になってしまうのかもしれない。

 SKIPシティ国際Dシネマ映画祭で2011年にグランプリをいただいたときに、審査委員長の桝井省志さんが「最近の短編映画は大人しすぎる。短編映画だからこそ、いろいろな挑戦ができるし、それをやらないと日本の映画はよくならない」といったことをおっしゃって。それって僕はテレビの深夜番組も一緒だなと思っていて。エログロ含めた挑戦的な番組があって、それがちょっとお行儀よくなってゴールデンタイム進出、みたいなことが、今はもうあまりなくて、それがテレビが面白くなくなった要因だと思うんですよ。だからそういう挑戦する作品にどんどん出てきてほしいし、そういう作品が映画祭のグランプリにノミネートされていけばいいな、と思いますね。

 「落研~」も、序盤はすごく画がキレイじゃないですか。テレビドラマを観ているかのような完成度だけれど、自転車で追いかけっこをする場面はすごく荒々しくて。キレイに撮ろうと思えば撮れるし、カット割りでどうにでもできるところで、あえてブレた画も使っていくのが「いいな!」と思ったんです。車とすれ違うときも、車をはっきり映すんじゃなくて、あえて奥の方でボケた感じにしているんですよね。

飯野:そうそう()

角川:飯野監督はさっき「カット割りを決めない」とおっしゃっていたけれど、まさにそれの良さというか。

飯野:角川監督が今おっしゃったようなことをまさに僕も思っていて、前に自主映画をやっていたときは、「多くの人に良いと言ってもらいたい」というスケベ心がまぁ、今もなくはないんですけど()、そのせいでどこか取り繕った仕上がりになっているかもという部分がちょっとあったんですね。

 その後、この歳になってもう一度自主映画をやろうというときに思ったんです。

 例えば他人が作った自分自身の思いが出ていないような作品を僕が観たとしたら、面白いかというと「良くできてますね」がせいぜい。それを他人に言いたくもないし、自分が言われたくもないし。歳を重ねると、必死で人間関係に気遣って「人脈を広げなきゃ」って感覚でもないじゃないですか。欠点があっても魅力がある人とは繋がりたいし、そうじゃない人とは別にいいかな、という。そうなったときに、映画も例え10人中8人に「なんだこれ、意味わからない」と言われても、あと2人が「意味わからないけど、なんか好き」って言ってくれる、そういう映画の作り方ができたらいいなと。

 「いい作品」と思われるより「好きな作品」だと思われたい。好きって理由がないですからね、良くできていようがいまいが好きなものは好き。それには、個人的な思いが乗っていないと好きになってもらえない気がしたんですよね。

 つまり「オレがこれをやりたい!」、「これを好きなやつに観てほしい!」という方が面白いと。そういう意味で、角川監督が「ミュージカル映画をやろう!」という熱い思いを持ってやっているのに対しては、「オレもそうだ」と思ったし、もしかしたら角川監督ほど貫けていてなくて、ツルンとした作品になっているかもな、ともなにせ「落研~」も映画祭には出しまくってて、それでガンガン落とされているので()。実は「そんなに嫌わなくても」と凹んでいたところに神保町映画祭ノミネートの連絡が来て、ちょっとホッとしたという。

 

 

ー「この歳で」とおっしゃいますけど、ブランクがあったんですか?

 

飯野:「落研~」の前の自主映画は2005年に撮ったものなので、ほぼ10年ぶりですね。今回は、仕事っぽく誰かに配慮して作りたくなかったんです。「~な人も観るから」という意見に合わせるとかね。外の視点のために作品が変わっていくのが嫌だったんで、それを排除することだけは決めて、勝手な作り方をしようと。だからめくりのスピード感に関しても、誰がなんと言おうとオレはこれだ、と。

 


古書店だけではない神保町の魅力

アクション映画だって面白い!

 

ー自主映画を撮る際の制作費は、基本的には監督が出しているんですか?

 

角川:今回の作品は、かかった経費は自分が出して、ギャランティは、完成してからいろいろ回収するので、そこから出しますということで皆さんにOKをいただいて。だから神保町映画祭の賞金はすべてギャランティとして出しました。今年の3月に出来上がったので、そこから12月までに上映会や映画祭などでプラスになった分をね。ひとまず、自分の出した経費は赤字のまま置いておいて。自分が役者をやっているというのもあって、少しでも役者やスタッフに還元したいんです。

飯野:でも、役者さんもスタッフさんも23年待ってくれているわけですよね?

角川:そうですね。文句も言わず。だから少しでも応えたくて、とりあえず今年の分を。

飯野:一番健全というか、いい形ですよね。僕の場合は、10年前に自主映画で知り合った監督で、今自分で映像制作会社をやっている人がいて、僕がずっと撮っていないことを知っていて「なんで撮らないんだよ、僕が制作費を出すから映画作れ」と。初めて他人にそんなことを言ってもらったんですよ。それで「じゃあ作るよ」と。そうは言っても、スタッフや役者にギャランティを出せるほど資金潤沢というわけではないので、それは映画祭の賞金からという。

 

 

ーもし、神保町で撮影をするとしたらどんな映画を撮りますか?

 

角川:神保町的ないくつかの文化古書店街もスポーツ街もある、そのどれかひとつというのではなくて、うまく映画の中で集めて、ミックスできると面白いなと思います。ミュージカルでそれをやると、たぶん音楽もちょっと変わってくると思うし。古書店の音楽、スポーツ店の音楽その要素をちょっと登場人物に背負わせるだけですごく面白くなるはず。

飯野:僕は神保町というか神田、御茶ノ水界隈の街の雰囲気がすごく好きで。新宿とかだと街は広がっているけど、この辺りは特定の地域でギュッと小さくまとまっているような印象なんです。そのイメージの中で、主人公たちが……走り回るとか()、結局そういう感じになるんですけど、アクションをやりたい。

 僕の中では、アクションってできるだけ狭いところでやりたいんです。大通りより路地の中に入っていく方が面白い。ハリウッド映画だと広い場所や高いビルで派手にやる感じですけど、日本で言えば深作欣二監督の作品だと、路地という路地、隙間という隙間に入っていく()。そういう意味で、神田、お茶の水界隈は密集した空間のイメージがあるので。

 今日来るときにも見かけたんですけど、建物の間の路地で、車は通れないけど自転車は大丈夫、みたいなところがまだ結構残っているんですよね。神田駅の下とか、小さい店がたくさんあって、店と店の間に狭い路地があって、あそこはめちゃくちゃ魅力的だなと思って。前から延々ロケハンしているんですけど、まだ撮ったことはないんです。なので、ロケーションの魅力を活かしてなにか撮れたらいいな、と。本当に味があるので。

 

角川:路地でアクションというと、一昔前のジャッキー・チェンの映画みたいな。

 

 

ーゴミ箱とか資材を蹴り倒して進むような。

 

飯野:そうそうそう!体を張る感じの(一同笑)。

 

 


 

映画祭を作り手の交流の場に

映画祭自体のファンを増やして

 

 

 

ー受賞作の今後の展開や、2017年の展望についてお聞かせください。

 

角川:この作品の上映会などは予定していないのですが、職業柄、ライブイベントやミュージカルイベントを開催したりするので、そういったときに併せて上映していこうかなと。2017年は、これまで同様ミュージカル文化を広めるために、映画も撮るし、イベントも積極的にやっていこうと思っていて。俳優養成の学校的なものも作りたいですね。その基礎になるもの、土台作りを2017年にしっかりしていく年にしようかと。

 

 326日は「ミ(3)ュージ(2)カル(6)の日」と勝手に宣言して、2016年にイベント「東京ミュージカルフェス」をやったんです。そこで今年も3月にイベントをやろうと思っているんですけど、今度は22日~26日の5DAYSで、さらに27日には「神奈川ミュージカルフェス」もやろうかと。

 

飯野:まだ決定している上映会などはないんですが、2017年も細く長くやっていって、少しずつ広めていければいいかな。2017年は新作を撮りたいと思っています。「落研~」まで10年空いたというのは本当によくないと感じたし、さらに2017年に入ると「落研~」の撮影からも2年経っちゃうので、本当は今のタイミングでもう新作がなくちゃいけないくらいに思っていて。だからなんとしてももう一回撮りたいですね。

 

 

 

ーこれからの映画祭に対して望むものは?

 

角川:神保町映画祭もそうですけど、映画祭が終わっても上映の機会があるのはうれしいですね。上映機会が増えることが、一番求めていることなので。一週間限定のネット配信でも、自分以外の人から上映してもらえるということがありがたいし、作品を紹介してもらえることがうれしい。

 

 強いて言えば、交流の機会もせっかくみんな集まっているので、単なる交流会だけではなくて、交流を促せるような空間とか、繋がりができるきっかけとかが一杯あればありがたいなと思います。僕は出会いがきっかけで物事が動くことが多いので、それを映画祭側がちょっと促してくれると。

 

飯野:映画祭には「映画祭のお客さん」を作っていただきたいです。自分も上映イベントをやっていて、なかなか難しいことだというのはわかっているので、「できてないからダメだ」というようなことでは決してないんですけど映画祭って、多くの場合は応募作品の関係者しか来ないんですよね。それは撮っている側の責任でもあって、観たいと思わせる作品が作れているのか?という問題もある。ただ、映画祭にノミネートされるということで作り手側が期待するのは「自分達の想定しない観客に観てもらえるかもしれない」ということで。「この作品がかかるから観に行く」だけではなく「こういう作品が集まる映画祭があるから観に行く」というお客さんを集めていただけるとしたらすごくうれしいです。

 

 もちろん自分達も告知をして人を集めるんですけど、こちらの告知が届く人だけでなくて、いろいろな人が来る映画祭になってほしいな、と。自主映画だと、現状は相当大きい映画祭でなければできていないことなんですけど、それをやってもらえたら一番ありがたいかな。

 

 

 

ー実はその現状も聞き及んでいて、神保町映画祭で「まちの人審査会」を設けたのは、作品を観る人を増やしたかったからなんですよ。自主映画を観たことがない人に、まずは観て、「面白い」と思ってもらえるきっかけを作りたいと。

 

飯野:僕は神保町映画祭の本番には参加できなかったのですが、映画祭の1日目にお邪魔したスタッフが、「他の映画祭よりも年配の方とかも多くて、雰囲気が温かかった」と。他の映画祭では誰も笑わないようなところで笑ってくれたり。そういう意味では、普段僕らが集められないような観客を集めてもらえたのかな、と。

 

 そういえば審査側の「ノミネートした理由」や「選考のテーマ」って、当日の講評があるまで発表されないことが多いですよね。これが示されて、広く告知されるだけでも、「こんな面白さがある作品だ」ということがわかって、自主映画に興味のある人を引き付けることができるかもしれない。

 

角川:神保町映画祭では、投票用紙のコメントを全部読ませてくださったじゃないですか。あれはとてもよかったな。誉めてくださっているのはもちろん、自分では気づかなかったところを指摘されていたりして。

 

飯野:僕も作り手として「飯野の映画を誰が観たいと思ってくれるのか」ということを考えることはあるので、映画祭の側にも「この映画を観たいと思ってくれる人は誰か」を考えてみてほしいというか。大変なことだし、ただの理想論なのはわかっているんです。ただ、もちろん自分で良いと思って作っている映画なんですけど、自分では気づいていないところに、人に届く魅力があるかもしれないわけだし。映画祭の審査って、映画にとって最初の客観的な視点なので。

 

 

 

  

ーお忙しい時期にお時間ありがとうございました。
本年もご活躍を楽しみにしております。

 

 

文・構成:丸田カヨコ

スチル :徳田巌 

取 材 :向日水ニャミ子 

協 力 :ブックカフェ20世紀